少しは心理的安全性の話もしよう。
私の実家は、というか両親に対するイメージは、
「完璧もしくは理想的でなければ首を切るぞ」
というようなものである。
首を切るとは、家から解雇するぞ、というようなイメージである。
東大でなければ人間じゃない、したがって解雇するぞというような類のものである。
社会は、私の実家より、ずっと安心できる場所なのだと思えるようになったのは、最近のことである。
今思い出しても、安心できることがある。何度も思い出すようにしていることがある。
それは私がヨガクラスでコンタクトがズレて目の下に行って見えなくなってしまった時のこと。
私はとにかく取り乱してしまった。声を出して受付のあたりを駆け回った。
普段はロッカールームでもジム内でも声もかけ合わない女性たちが、
みんなたくさん寄ってきてくれた。
私がどこかで期待していたのは一人か二人受付の人が助けてくれるぐらいのものである。
それなのに関係のない人たちがロッカールームからなぜか大勢出てきて見守った。
そしてその中の一人の若い女の子が
「ちょっと目だけ動かして上を向いてみてください」
と言った。私は言われた通りにやった。
そしたらコンタクトが発見された。
「そしたら斜め上向いてください」
私はまた言われた通りにやった。
そこで無事取り出すことができた。
彼らは言ってみれば他人である。
普段は口もきかない。いわば親しくはない。
なのに無視をされなかった。
そして適当でもなかった。ちゃんと踏み込んできて、助けてくれた。
そこには「ちゃんとした踏み込み」があったのだ。
コンタクトがずれたごときで?と思うかもしれないが、
私が重要だと思っているのは、この「コミット」であり「踏み込み」である。
ただ周りを囲んでいただけではない、愛情の関わりが感じられた。
私が実家が信じられなくても社会が信じられている一例だ。
生い立ちが毒親育ちであると、世の中が安心できる場だと思えない。
でも、この世の中は、実家よりずっと安心できる場所なのだ。
いい歳してコンタクトがずれて大騒ぎしても、見知らぬ他人が助けてくれる場所なのだ。
私はこの一件でそれが信じられた。助けてくれたのが親しい人たちでは決してなかったからだ。
理解してくれる人たち、ただ普通に助けてくれる人たち、を探そう。
そうでないと今度は心の病でなく、身体の病で倒れるぞ、と言い聞かせながら。