毒親のまずかったところはたくさんある上で、
あとは自分が決めることなんだな。
私は現実の親に対するNOは突きつけられたし、現実の親に対して脅威はもはやない。現実の親からの実害がない。
自分の方がもうはっきり言って強い。
電話したり会ったりすると具合悪くなるので4年は会ってないし連絡も一切していないし、会話してないし、楽です。
もう大人なんだ
ということ。
どこから自分の人生にあるものとして対処していくのか、
それは自分が決めることであるということ。
親から受け継いだ毒も、自分の人生のものだということ。
負の遺産を自分のものとして、受け継いで、抱えて生きていくということ
これが大事なんじゃないか
そういえば私たちは、もっと先祖から、いろんな良いものも受け継いでいる
その上でどういう人生を生きるかを決める責任は自分にある
自分で決めていい
私は認識した
親の自分への期待、なんて、すごく重たいと思っていたけど、
風見鶏ぐらい適当なもんだったんだと。
完璧さを装おうとしていたくせにとんでもなく不完全な(鬼畜レベル)二人の親だったのだということ
とにかく嫌な奴らなんだと、そういや彼ら友達もゼロだし。
でも別に良くない?人なんだし。自分とは別の人間なんだし。
他人として見ることだ。
平たく言えば、「親に何も期待しない」ということ。
母親が謝りたいと言っているらしいが、これも母親なりの「謝りたい」であって、
これも風見鶏がちょっと右向いたぐらいに考えていていいのではないかと。どうせまた左向きたい時は左を向くんだろう。
謝ってもいいけど私から何も出てきませんよという意思表示はするかな。
こっからは自分の人生なんだよー!!
っていうことだな。
実際のところ、親は子のことを、子供が思っているほどには、思っていないので、
親から自己愛を満たす道具と思われていた、ということを否認せず、ちゃんと認識することが大事だと思うのです。
親は敵だったし、心理的安全性、安全基地を作ってくれないどころか、
この世は危険だということを体感的に教えた鬼畜野郎どもです。
詳しくはこちら↓
だから、愛されていたという期待を持たない。
仮に愛されていた部分があるとしても、彼らが愛したいように愛しただけ。
もう気まぐれだし、適当なんです。
我々は犠牲者です。犠牲者を生きるんです。
毒親劇というのは、子供からの「愛されたい」っていう切なる願いの現れでもあると思うんですね。
でも親からの愛が気まぐれで自己愛を満たす道具に過ぎなかったと思えば、こちらからの親に愛情を求める期待を完全に断てばいいことですよね。
親が不完全だったと思うと楽にはなりますよね。
なんか言ってきたら「は?馬鹿じゃないの?」と言ってやればいい。場合によっては、老いてからちょこちょこと仕返ししてやればいい。気付かれない程度に。
毒親で悩みつづけるのは
こっから先は自分だよね、自分の人生だよね
っていう境界がなくなっている時だと思う
許せるかよーって思うと思うんですけど、
じゃあどこからは自分の人生?
どこからが自分の人生と決めてる?
って自分に問うてみてください
全てを親ガチャで決めるわけでもないでしょう。
親に対して親の死後、後悔したり罪悪感を持つか?といえば多分それはないです。
なぜなら、親の愛が気まぐれだったと知っているからです。多分死ぬ直前も適当に、良かった風に解釈して死んでくれるでしょう。ならばこちらも罪悪感はない。
毒親の子に対する愛は大したものではないです。
愛が欲しい、愛が欲しかった、と思うとは思うのですが、
でも、愛がなかったという事実は事実です。
そしてそこから受け取った負の遺産があると思います。
私は、家族に父親の性虐待や身体虐待、母の心理的虐待をも全て暴露し、
彼らが老いても心の面倒も身体の面倒も一切見ないという仕返しをして、
遺産も貰わず、そのようにして、自分が被る実害を最小限にした上で、
はぁーこいつらも完璧に不完全だったんだなあーと思っています。
そして親に仕返しして、実害も取り除いてもまだ自分に残る負の遺産は、自分の人生のもので、自分が抱えて生きていくものだと認識をしています。
やはり
「どこからが自分の人生なんだ?」という問いが
境界線を作る問いがどうしても必要なんだと思います。
彼らは自分とは別の人間なのだということ。
そして多分地球上でとんでもなくどうしようもない人間で可哀想な人たちなのだということ。
だって子供にこんな対応しかできないのですから。
私に課せられた課題は、残りの人生、親からもらった誤った生き方ではなく、
周囲にいる人生が豊かな人たちとともに歩んでいこうということ。
負の遺産を背負いながらそれをするということに私が生きている意味があるということです。
みんな生きる意味はあります。でもそれは自分が追い求めるというより、与えられるものなんだと思っています。