うつ病・不安障害日記

毒親の両親に育てられ、成人後ひどいうつ病を発症した毒子日記です。

勝ち組と負け組 勝ち組の心にある弱さ

 先日、生活保護の不正受給の問題が持ち上がって世間をにぎわせた。
 世間の冷ややかな目は不正受給をしていた芸人ではなく、人生エリート街道まっしぐらでやってきた片山さつきの方にに向けられたようである。彼女に対する嫉妬や妬みもあるのかもしれない。片山さつきに対する冷ややかな反応は、自分たちの生活の不安がそのまま向けられたものであるかもしれない。その後その芸人の仕事が減ったという話はきかない。
 
 さて、片山さつきである。彼女はいったい何がやりたいのだろう?

 彼女は能力と努力のエリートの権化みたいな人である。
 
 能力が高く、努力することが許される環境にいたひとたちは、やむをえず社会の底辺層に押し込まれた人たちのことを「努力が足りない(努力していたらこうはなっていない)」と考える傾向がある。能力もなく、努力できるような環境的なリソースもなく、したがって「努力する」という概念すら持たずに育ってきた人に対する想像力は働かない。

 想像力のない人たちは世の中にたくさんいるから、これはさして珍しいことでもない。問題は、「成功した人に限って」、あるいは「成功者にもかかわらず」、想像力が働かなくなるということである。自分がそういう立場に置かれたことがないからと考えることもできるが、単にそれだけではない気がする。なにしろ彼らは「能力が高い」のだから、自分以外の人に想像力が働いてしかるべきなのである。

 自分以外の人に対する想像力がなければ社会で成功することなどできない。顧客はどう思うだろうか?こういう環境にいる人にはどんなニーズがあるだろうか?そういうことができるからこそ、彼らは成功者となるのである。

 しかし、こと「努力」に関してだけは、想像力が働かなくなってしまう。まして共感などもってのほかである。どちらかというと軽蔑の念をもって、生活保護受給者たちを迎える。どこかでさぼっているに違いないと考える。今回のように。

 なぜだろう。

 多分、想像力が働かないのでなく、あえて働かせないんじゃないかと思う。考えようとすると、心理的に何かが働いてシャッターみたいにしゃーとその扉を閉めてしまうのである。

 なぜなら「何とかならないのは努力していないからである」という「セオリー」こそが、彼らが自分を自分として保っている部分だからである。努力できない状況があるということを認めてしまうと、それは自分を保っている理論というか柱(努力すれば何とかなる)みたいなものまで崩れることになる。自分自身の拠り所を、「努力」という、少し突ついたらガラスのように割れて崩れてしまう、非常に脆いものに頼っているという時点で、彼らもまた弱いのである。「努力の人」であるなら、彼らの心の中に存在する影・シャドーは、「努力してもどうにもならない自分」であり、それを生活保護受給者に投影しているのである。自分の中の見たくない部分、どこかにおしこめておきたい部分、それには制裁を加えなければならない、ということで、起こったのが今回の件。心理学的な意味で読めば。

 もしこういう人たちが存在するということを仮に認めることができたなら、自分の中にも努力してもどうにもならない部分があることを認められる、真にすぐれた人間になるか、あるいは、依然としてそれを認められず、今度はそこから優性学のようなものに走っていくか、どちらかであろう。