うつ病・不安障害日記

毒親の両親に育てられ、成人後ひどいうつ病を発症した毒子日記です。

人生計画通りに進めようと思っても、そううまくはいかない。
 
 逆に心が計画に固執しstuckしていたりすると見えるモノも見えてこない。

 そういうものから解き放たれた時、あれほどほしかったのに手に入らなかったものが自然と手に入っていたりする。自分で努力した時は決して手に入らなかったものが。

  人間の努力とは、本当にちっぽけなものだ。もちろん、生きていくうえでのスキルは大切だ。でもそれありきではない。そういうものは、こころが開かれれば後からついてくる。計画など立てなくても、スキルを獲得しようと心から望めば、そのための努力は誰でもできる。そのときに開発される能力の可能性は無限だ。

 例えば英会話の習得。やってもやってもできな人がいる。これは、英語が話せる自分、というものに固執しているからであって、英語というものが生まれた、その言語が結びついている文化に、心が奪われていると、びっくりするぐらい話せるようになる。英語が話せる自分、ではなく、英語しか話せない恋人のことが知りたいと思えば、英語は話せるようになる。英会話の学校は「英語が話せる自分」が目的である。その先のものがない。だから自分は語学習得の才能がないのかと決めつけてしまいがちだが、そんなことはない。その時固執しているものを手放し、本気で英語圏の文化にとけこむ必要性にかられれば、英会話は驚くほどできるようになる。能力の開発は無限と言うのはそういう意味だ。
 
 一番大切なのは、その時々で考え、その時々で自分の心が、これがしたい、これが必要だ、これがいいのではないかと興味をひかれるものに、足を運ぶことだ。

 それは人生の真っ当な計画とは反するものかもしれない。

 あるいは、明らかに困難が待ち受けていると分かっているものかもしれない。周囲が大反対するものかもしれない。明らかに遠回りなものかもしれない。

 だが、心を研ぎ澄まして、耳を澄ませて、自分の心の声をきくしかない。

 こういうとき、自分自身の「道」というものが、あることに、何となく気づいてくる。

 それは決して結果が見えないものであるし、どうなるか分からないが、確かに自分の道だと感じられるものだ(「分かる」ものではない)

 人生の計画とは、結果が分かっているもののことを言う。どこへたどり着くかが見えているのだから、それはゴールが見えている。
 だが、道というのは、その漢字を見ても分かる通り、くねくねしていて曲がり角の先はどうなっているか分からない。それでも進んでいくものなのだ。
 
 そういうことが理解できたとき、人生は非常にままならないと感じるし、怖いとも感じる。

 だがそれは、自分の力のみでその道を行こうとするからだ。その道は、導かれているもの、自分のコントロールの範囲外にあるもの、自分より大きな力が働いているということだ。

  自分のために、自分がナニモノかになるために、努力をしている間は、決してその想いは成し遂げられまい。言い換えれば使命のようなものだろうか。それに身を委ねるとき、道は開かれてくると思う。