うつ病・不安障害日記

毒親の両親に育てられ、成人後ひどいうつ病を発症した毒子日記です。

身体の震えが出た

 職場で、人前で字を書くときに、手が震えた。うつ病発症時に出た書痙(書字の震え)の問題が出た。仕事上書かなければならないものを書けなくて、代筆を頼んだ。
 当然、相当凹んだ
 家に帰ってからももんもんと考え込んで、もう一生私はこんな問題に付き合わされていくんだと絶望を感じた。眠れなかった。

 だが、数日間考えて、分析したら、その意味が分かって、一応は落ち着いた。

 その分析を、認知行動療法ではどう見るか、精神分析ではどう見るか、という観点から、素人の物まねになってしまうが、書いてみたい。

家族因子:もともと祖母が手が震える。
身体面の要因:体調が多少悪い、ここのところ急激に寒くなった(身体が冷え、震えやすくなる)
状況的要因:新しく仕事を頼まれて評価されているんだと喜んでいた。だが病気のことを考えて断ろうか迷っていた。
状況的要因:この作業は2回目。1回目のときは震えなかった。
状況:職場で人前で字を書く
負荷となる要因:人に見られている。自分で書く言葉を考えなければならない(ただ書き写したり暗記している情報を書くのではなく、自分で文言を考える)。仕事上必要になる重要な書類である。
身体:何となく集中できていない頭が回らない感じ、身体が固い感じ
感情:パニック、困惑、自意識過剰
認知:
(1)責任にまつわること:もう慣れてきたから責任を持って役割を果たさなければならない。でもできれば責任を持つ立場には立ちたくない。自分全体が同僚からじっと観察されることになる。見透かされてしまうかもしれない。
(2)じっと見られている。震えたらばれる。心の弱いことがばれる。震えてはならない。震えたらもう全部評価が総崩れ。
(3)どうにかごまかせないものだろうか。考えたくない
(4)絶対にできないに違いない。でも自分の役割だから絶対に自分がやらなければならない。
(5)言葉を考えながら書くことが私の役割で良い言葉を思いつくことを期待されている。その期待に応えなければならない。ちゃんと言葉を考えて書けるか試されている。でも書く上に言葉も考えるなんて今日の私には負荷が大きすぎる。できない。
(6)これで本当の自分がばれてしまって評価が下がってしまった
(7)ここで最高のパフォーマンスが出せなければ、私は仕事人の一員として認められない。(どうしても皆に認められたい)
(8)今までうまくやれている。でもこの自分がそんなにうまくやれるわけがないからいつかボロが出てすっかり評価を下げてしまうに違いない。
(9)どんなに誰が「少しぐらい震えてもおかしくない」と言ったってそんなのごまかしでおかしいものはおかしい。


行動:何とかごまかして書くのを先延ばしにしようとする。力を入れて書く。
自意識過剰、自律神経亢進、顔が赤くなる、動悸がする
手が余計に震えてくる
文字が震える。見づらくなる。
過去の経験から、ストップして恥をしのんで代筆を頼んだ
快く引き受けてくれた
それでも相当落ち込んだ。

<対処法>
(1)サポートを求める
細かく全て説明する。何が原因で、どういう時になり、どうしてほしいか。
(寒くなったりすると体が震えて、特に重要な仕事上の書類など負荷がかかると震える。突然なるので自分でも予測ができない。そういう時はお願いするので、代筆をお願いしたい)
震えるところをしっかり見せる。(理解できない人でも納得する)
別の人に代筆してもらうことで、その人に弊害があるのか、あるとしたら、ナニで補うのか、考える。
(2)ベータブロッカー(薬)を服用する(発症時もこの薬のおかげで震えが止まった)
(3)温浴とか、ホットヨガなど身体を温める
(4)考え方に対して認知療法を行う(責任を果たさなければならないが今のままで十分役割を果たせている。背負いすぎないこと。人生いろいろなことがあるから別に気にするほどのことではない。仮に職場の人が自分に多大なる評価をしてくれているとしても、人生でひどく困った時には結局自分でやらなければならないのだから、彼らからの評価を上げても何の得にもならない。気楽に行こう。)
(5)今日は何だか頭が回らなくて。。。何て書けばいいですかね、と同僚にきく(少なくとも自分が考える手間は省ける)
(6)気楽に自己開示しながら書く「今日は震えるかも、大丈夫かな。私震えるんですよ。嫌になるわ」
(7)自分が尊敬する人なら同じ状況でどうするか→自分ができないことを認める。お願いする。言い訳しない。他の人が他で困っているときに助ける。→その人になったつもりでその状況を切り抜けてみる
(8)あんまりひどいなら、それは全体的に体調が悪いのだから生活を見直す。

精神分析的な解釈①】
~他人からの評価を無意識に調整・コントロールしようとする性質~
数年ぶりの職場復帰で、特に問題が起こらずうまくやっていたので、自分がうまくやれるはずがない、いつかボロがでると感じて怖くなり、その「いつかボロがでる」という状況に耐えられなくなり、自分から先手を打って評価を下げた、と言うことができる。特に始めたばかりで、別の仕事も打診された直後であった。評価をされていなければ頼まれるはずがないから、評価をされていると思い、評価をされた瞬間に評価を失うことを恐れ、それならば自分から評価を下げてしまおうと、症状を出した。そうして「自分はみんなが思っているほどではない」という低い評価を得ようとした。人から評価を下げられたのではなく自分から下げたとなれば、自分の傷つきは少しでも軽くなるからである。
私にはこのように、「自分で他人からの自分に対する評価を無意識に調整・コントロールしようする」癖がある。評価を上げたいと思う時には、相手の期待に添うように動き(そんなつもりになっているだけであろうが)、ちょっとした行動から自分が評価されていると勝手に思い込み、自分が評価をコントロールできていると解釈するし、評価を下げたいときには、今回のように症状を出したり不適切な行動をとったりして評価を下げる。これが無意識に進行していることであるということがポイントである。症状は周囲を強制的にコントロールできる。震えて書けなかったら他の人は書かざるを得ない。他の人に書かせているということは、やはり結果的には自分の仕事ができていないということになるだろう。つまり仕事ができない自分を見せたのである。
人からの評価を無意識の中でコントロールすることで、実は自分で決めなければならないことから自分を避け、自分をコントロールしている。

人がどう思おうと、自分が良いパフォーマンスを出したかったら出せばいいし、時給が低いんだから、頑張らなくていいと思ったらそれなりの行動をとればいい。
でもそれができない。
自分でどう動こうというのが決められない。時給が安い時は自分は安いなりに働く、とかそういう自分の基準がまるでない。どうここで動いたらいいか、わからず、自分の基準に自信がないから、そうやって、他人からの評価をコントロールすることで、自分の動き方を他人に教えてもらおうとしてる。「人からよく思われているのであれば、私は良いパフォーマンスで動こう。悪く思われてるのであれば、悪いパフォーマンスで動こう。」という、よく動くかどうかの基準が他人任せなのである。他人がどんなに期待していようと、自分は時給の低いところでは頑張らないと考える人なら、そう動くだろう。しかもその「他人の思惑」を無意識に自分でコントロールしようとしている。(本当はできないんだけどできると思い込んでいる)
本当は、私にとってのこの職場の基準はあくまで職場復帰の第一段階なのだ。新たな仕事を打診されたり、、職場の人が歓迎してくれる状況で、それが揺れた。自分という人間が評価されてるんだと思い込んだ。評価されているならばそれにしたがって動かなければならないと人に自分の動き方を任せた。
職場復帰の第一段階として動くという自分の基準に、それでいいのか自信がない。その基準で行けば当然、新しい仕事など断るべきなのだ。でも心が揺れてしまった。だから、症状を出して他人を巻き込んで決めた。実際この症状のおかけで、新しい仕事は、はっきりと自分の中で「できない」とわかり、無しになった。検討の余地なく。人にできない自分を見せ、私は低く評価されたから、新しい仕事しなくていいよね、とこういうわけである。

精神分析的な解釈②】
責任を持ちたくない、子どものままでいたいという心の訴えである。だから慣れてきて責任が生じそうになり、症状が出た。

精神分析的な解釈③】
~人生の退屈しのぎ~
だが、この問題が起こってから、生活が整った感じがある。なんか取り組む問題が出きたっていう感じがして、どこか張り合いを感じている自分がいる。病気になってから何もすることがないときは、夢物語みたいな空想ばかりしていたのに、まともに、この書痙の問題に取り組むようになって、上に描いたような分析とかを頭の中でやっている。非常に現実的な問題に自分から取り組んでいる。これって相当エネルギーを使うことのはずなのに、それができてしまっている。

きっと今の自分は、人生がある意味退屈。子育てに追われているわけでもない。ひどく貧乏ってわけでもない。

だが、自分は自分勝手で子供のことでなんか悩みたくないタイプ。子どもって結局、自分とは別の人間で他人だから。

きっと自分は、自分の問題で悩みたい人なのだと思う。
だからうまい具合にそこそこ悩めるぐらいの症状として現れたんだと思う。毎日震えてるわけじゃないけど、仕事になると代筆してもらわなければならないレベルってそこそこ悩みだけど大きすぎる悩みじゃない。
そうやってうまい具合に症状を選択しているんだ、無意識で。専門用語では「症状選択」っていう言葉もあるらしい。
人間は退屈しのぎにいろいろと、難しい問題を人生の中に持ち込んでくるらしい。
登山家とか、なんであんなことわざわざするんだ、危険なのにと思うけど、彼らも、ある意味では退屈しのぎに違いない。そんなこと登山家の人に言ったら顔を真っ赤にして怒るかもしれないけど、でも事実そうでしょ、それやらなくたって死ぬわけじゃない。ってかそれをやったらむしろ死ぬ可能性高まるわけだから。

私は考えるのが好きで特に自分について考えるのが大好きで、他のゴタゴタについては全く興味がなくて、それで考えるきっかけに手の震えの問題が出たのかもしれない。
だってそれ以外生活の悩みがないんだ、本当に。作らないようにしているともいえる。悩みを作りたいなら、家とか買ってしまえばいい。そうすればお金が無くなって働かなくてはいけなくなって、そこでの問題で悩んだりするから。
でもそういうことはしない。そういう問題は抱えたくない。
意識の上では、もちろん
絶対悩みたくなんかない、もう悩みなんか嫌だ、うつ病からも不安障害からも、離れたい、みんなと同じように病気がなかったらどんなにいいかと心の底から思っている。みんなと同じがいいと。毎日毎朝起きるたびに考えてる。手の震えの問題を抱えたくないならそんな職場に行かなければいいのに、行くと決めてる自分がいる。
この問題抱えている方がどこか毎日がシャキっとするから不思議。書痙を治すために体を少しでも整えようと思って、最近では毎日お風呂に入ってる(少し前までは全然入る気にならなかった)。一生懸命、手の震えを治す病院を探したり、うだうだ分析したり、心理学の本を読んだりしてる。

まるで悩みたくって症状が出たみたいだ。

私は、私自身のことをもっとよく知るために、人生の残りの時間を使いたいんではないかと思う
ブッダだって結局、人生があまりにも楽すぎて暇すぎて修行に出たんじゃないかと思う。もともと王族で豊かだったわけだから。
それを妻、子どもほったらかして外に出ているんだから、ある意味、責任放棄して自分の悩みたいこと悩みに出たとも言える。家にいれば満足に食べ物が与えられたのにわざわざそれを拒否して苦行をつんだりとか、もうこの人も自分を悩ませるのが好きだったとしか思えない。

でも暇だから手が震えてると言い切るにはあまりにも、苦痛だけどね。本当に嫌だよ。自分はどこか欠けている、欠陥のある、劣った人間と思ってしまうから。
こうやって分析したってそういう苦しみから解放されるわけじゃない。