希望の裏にある暗部
以前にも書いたが光の裏には闇がある。
人間。傷つきやすい優しい人が、ある部分においてはひどく残酷であるという場合がある。表舞台では悪の権化であるような人こそ、裏の部分で非常に人情味深かったりすることがある。まじめ一徹な人が、ときどき社会的に認められない行為を働く。人の心の闇を垣間見るとき、身震いするほど恐ろしさを感じることがある。それが前面には現われていない人ほど、そうである。
社会もでもそうだ。
『皆平等』という社会の裏にどんなひずみが生じているだろうか?
また、発展していく国家の背景に、その国家が衰退していくための要素が着々と積み上げられていくものだ。ある時、それが逆転する。時代の暗部が浮き彫りにされる。そしてその時代は終わりを告げる。
犯罪等、社会の暗部を完全に解消しようとしても、それは決してなくなることはない。また別のところを噴出孔として、形を変えて表出してくるだけだ(だからといって犯罪を取り締まることに意味がないと言っているのではもちろんない)。
どちらかだけ、ということはない。残念ながら。私たちはその両方を右往左往しながら、あるいは闇をうまい形で変形させながら、生きるしかない。暗部がうまく社会的に昇華されないで前面に押し出してしてきてしまう事態が、精神疾患であろうが、そこにもまた光はあるはずだ。治りたい・治そうとする気持ちや、病気が周囲の人に何がしかの歪みに気づかせ、発展性のある方向へ動かしていく面が、病気であることの光の部分である。病気は、システムが抱える問題や病理を浮き彫りにしてくれる。決して語られなかった、意識されることのなかった部分を明るみにし、解決へと導いてくれる。だから決して無駄なことではない。病気になることで自身が変化し、周囲も変化し、コミュニケーションが改善される。