耐えたあの地獄。
2010年に自分がつけていた、走り書きのメモのようなものを読んでみた。
今ある問題とその対処みたいなことをずらーと書いていた。
だが今みると、どれも病院に行っていないその当時には、決してできなかったに違いない対処法ばかりをあげている。
「胸部不快感をとるための工夫を〇日かけて自分で構築していく」とか、難しすぎることばかり書いている。
そうするしか術がなかったのだろう。できないに決まっていることを書き連ねていっているところに、烈しい悲しさを感じた。今の現実から目を背けるためにやっていたのだ。
夫もそういうことに一緒に付き合ってくれていた。その時は本気で一緒に考えてくれていると思っていた。
だが今になって分かる。
夫はこれらの対処法がその時の私にはできっこないことを、恐らく知っていたと思う。
でもそうするしかなかった。病院に行けなかった私には。
現実から目を背けるためにやっていることに、夫は付き合ってくれていた。
そう考えるととてもつらい。そのときの夫の心境はどんなものであったかを想像するからだ。
医師から余命宣告を受けて、本人は知らされずに(とても知らせることができずに)、本人が治る方法を一生懸命考えるのを、一緒に家族に考えてもらっている、たとえば、そんな状況と似ている。
そんな時、何も知らない本人とそれに真剣に付き合う夫。それを想像してみてほしい。
それと全く同じだったと思う。
私はノートに、今ある症状とその対処法を、病院に行く以外の方法でたくさん書いていた。
こうすれば治るはずだ、こうすればよくなるはずだと。どこかで決してかないそうにないことが分かっていたのに。
そしてそれらの症状は、耐えるにはあまりにもつらすぎて、明日も耐えねばならぬと考えたなら、今の一瞬も生きられぬほど激烈なものであった。
今の呼吸ができたとしても、次の呼吸ができるか分からない。
そんな一秒一秒を生きていた。
だから、今の今をただ生きるために、かないっこないと分かっている嘘の対処法を、必死で書いていたのだ。こうやれば明日は生きられるようになると。だから今を生きようと。
綱渡りだった。
そしてその綱から落ちないようにするため、歌を歌った。5時間ぐらいずっと歌っていたこともある。ソファに座って一歩も動かないでただ歌っていた。その間、ゆっくりソファによりかかるとか、何か飲むとか、そんなことは一切できない。そんな風にしたら、もう綱から落ちることが分かっていた。力を抜いたら落ちると思っていた。
廊下も走った。何時間も。
この時から考えたら、私は相当遠くまでやってきた。
だが、この頃のことを振り返ってみたら、焦ってはならないことがよくわかる。
このときこうすれば治ると書いていた方法は、そのとき決してできないことばかりだった。
今もできないことばかりをやろうとしていないか、考えるべきだ。
やれないことを考えて焦るのではなく、それはやれなくて当然、と考えなくてはならないのだ。
あと5年たったときに、今の私を振り返って、今こうしなければならないと思っていることをどうとらえるか。
できないことばかりをやろうとしていたと思うだろう。
何年たったかは関係ないのだ。
自分が、今どこまでやってきて、どのくらいの地点にいるのか、大きく見積もってはならない。
今やっていないことはたぶん、今は決してできないことであるに違いない。
でもきっと何かが開けて、それらに手をつけることができる日が来るだろう。
だって、ひどい時に毎秒「自分の無能さ」を考えてパニックになっていたのが、今はすっかりその考えを手放しているのだから。
なんと忍耐をしいられることだろう。
だが本当にひどいときの忍耐に比べたら、こんなこと何でもないはずだ。