本当の自分の姿を見せること
自分がやりたいと思うこと、大切にしていることを、人の目を気にせずにやっていこうと決めた。
その時に大切なことは、「ありのままの自分の姿」でぶつかることなんじゃないかと思う。
背伸びをしたりしないで。その部分がいつも欠けているのだ。
大切だと思う人にはありのままの自分でぶつかろう。それが自分に正直に生きることだし後で後悔もない。幻滅されるかもしれないが仕方がない。
やりたいと思う事柄をすぐに結果を求めてあきらめるのをやめよう
なぜなら、今やりたいと思っているということ、これが一番価値のあることだからだ。結果なんてどうでもいいのだ。
でも、ありのままの自分は、いろいろなことができないと思っていて、それを人に見られたと思った途端に被害的になってしまう。防衛的になってしまう。だからずっと隠してきた。
今、受け入れてもらえると確信を持てる人にしか本当の自分をさらけ出していないのかもしれない。
これも結局仕方のないことなのだろうか
今までそうやって自分を隠して生きてきたのはある意味、仕方のなかったことなのかもしれない
今からまた頑張って努力して自分を見せるようなことをしたとして、被害的になったり精神症状が強まったりするんではないだろうかという不安がある。
それがただ「そうやって生きてこなかったことを後悔している」というただそれだけの理由でいきなり急にできるようになるものではない。徐々にやっていくしかない。
ただその人に隠さずありのままでぶつかったと思っていれば、後悔は少ないだろう。
だがそこで私はその人とそんな関わりを本当に求めているのか、ありのままの自分を見せられる、そんな関わりを本当に望んでいるのか、私は私が人並みにできるということを証明してくれるような人を求めているだけではないのか。
もし私がダメな自分をその人に見せたときに、(これは=母ということなんだろうけど)、そんな自分のままでもその人と交流したいと本当に思うのだろうか。そこが重要なのではないだろうか。
カウンセリングでも同様の出来事があった。急いで夢分析をしようとしたときのことだ。期待する母とそれに応える娘を演じようとしていて、そういう枠からはみ出した個々の関係性には興味がないと思っていたことを思い出した。
でも今、夢分析ではなく、自分がやりたいように話していて、ちゃんとカウンセラーと関係が持てている、つながりが持てている感覚がしていることは確かなのだ。自分のやりたいことを言わずあのまま夢分析をしていたら、カウンセラーからは条件付きの愛情しか受け取れないとどこかでかんじとって怯えていたに違いない。
だから私はやっぱり、ありのままの自分を見せるということ、自分のやりたいことを正直に素直に相手に見せるということ、ダメなところも見せられるということ、それを徐々にでもやっていくべきなのではないかと思う。