愛し愛された記憶
多分、死ぬ間際に
愛し愛された記憶があればいいんだと思う。
子どもでもいいし、夫や妻でもいい
人生の途中経過なんてどうでもいいんだなんて言い過ぎだけど
人は、
うつ病になって8年経過し、子供も産まずに39歳になってしまった私のことを、
不運だとか不幸だとか言うだろう
まあ自分でも確かに不幸か不運だと思う。そう思う多少は
だが死ぬ間際。
見栄とか欲望とかそう言う、いわば贅肉が全て削ぎ落とされて
本当に大切なものだけが残る時が必ずくる
人間にはそう言うタイミングというものが必ずやってくる。
その時に、
私はうつ病のひどい時に、夫から愛し愛されていたという、
疑う余地もない体験、
そのおかげでここまで奇跡的に回復できたという体験、
それが本当に私にとっての強み、になると思う。
根本的に人を愛することができないという事実に直面することに比べれば、
人間はおおよそのことに直面できる。
自分が誰かを愛し、誰かに愛されていた、
しかも根本的に
という
疑う余地もない体験ができる人はそうそういないだろう
それは生死の境にでもならないと、はっきりとはしないからだ
そして多くの人は生死の境を経験することはない
だから今愛し愛されていると思っている対象が
生死の境になっても自分を愛してくれるだろうとまでは、確かめられない。
私の義理の兄は、私の姉にこういったそうだ
「悪いけど君(姉)が、のんのん(私)と同じように(ひどい鬱)になったら、自分だったら実家に帰れと言う。」と。姉は何度も言っていた。
姉は私の夫を褒めているだろうが同時に自分はそこまでは愛されていない、と言われているのと同じことだろうと、私は思ってしまった。それを聞いて姉がどう思ったかな?
もっと言おう
これは断言する
愛されたと言う記憶が大事か?
そうではない
誰かを愛した、と言う記憶こそが、大事なのだ。
死ぬ時に、残るのはそれだけだ
死ぬ前に必要なのも、それだけだ
多くなくていい
たった一人でいい。
それが「自分自身」であったとしてもいい。
自分をとても大切に慈しんであげたのなら。