うつ病・不安障害日記

毒親の両親に育てられ、成人後ひどいうつ病を発症した毒子日記です。

それでも操縦桿を握る

 子どもの頃は、自分で自分の船の舵をとらなくて済む。船室の中に隠れたままでいて、甲板に立って、周りを見渡さなくても、誰かが自分の船を、良い方向へと引っ張っていってくれる、と信じているし、実際にそうである。多くは大人たち、自分の親が、船を引っ張ってくれるのである。
 しかし、思春期に入ると、親は船を引っ張ってはくれるが、自分の船に一緒に乗って操縦をしてくれているわけではないし、力が不十分であったり、引っ張る方向が自分の思う方向とは異なっていたりすることにだんだん気づいてくる。そこで私たちは、自分で船の前面に立たなければならなくなり、その結果、否が応でも、周囲を見渡すことになり、海の広さを思い知らされ、自分の船の貧弱さを思い知らされる。他の船と比べて、大きさやエネルギー量、持ちうるスキル、に違いがあることが分かり、愕然とする。
 「果たして自分はこの大海原でやっていけるのか?すぐにでも船は沈んでしまうのではないか?」そう考え、一度は船室に隠れてみたりもする。大海原は見なかったことに、そこになかったことに、してしまいたい。もう一度、親に船を引っ張ってもらいたい、と考える。あるいは、海は自分の手に負えるものであり、コントロール下にあると思い込もうとして、「頑張りさえすれば何とかなる」という信念にしがみつき、走り回ったりする。しかし中に隠れていたって、「大海原に貧弱な船」という事実は変わらないし、何も解決にはならない。まぎれもなくその船の住人は自分しかいないし、他の人は代わりに船を自分の思う方向に動かしてはくれないし(代わりにトイレにいくことはできないのと同じだ)、中に隠れていたら、嵐がきたときに気づくこともなく、船がしずんでしまう。そうやって、他の大きな船にぶつかられたり追い越されたり、嵐を経験したりしながら、最終的には自分で操縦桿を握り、その自分の小さな船で、その大海を泳ぎ渡っていかなければならないことに気づかされていくのだ。つらい現実だ。一方、自分で操縦しなければならない代わりに良いこともある。海の渡り方は自由、ということだ。少なくとも誰かに強制されることはない。自立する、ということだ。
 
 本来思春期に達成しておくべき自立という課題から、私たちはいくらでも逃げることができる。過保護な親や、勉強やピアノ・スポーツといった課題(それらのスキルに秀でている場合である)、不自然に密着しすぎた恋人関係、そういったもので、ごまかすことができてしまう。しかし必ずいつかは、壁にぶち当たることになる。『ノルウェイの森』の直子とキズキは、二人の関係の中に逃げ込み、外の世界と断絶することで思春期を乗り切ってきて、結局壁にぶつかってしまった。直子は主人公に、「私たちは成長期の痛みのようなものを経験してこなかった」というようなことを言っている。
 
  白状すれば、私がこの病気になったのは、自分がまだ船室に隠れていたいためなのだと思う。自分が貧弱な船の住人であることに気づき、海は果てしなく広く深いことを知り、自分の船はある一定以上大きくなることはなく、また海が小さくなることもない、そしてそんな自分の船を沈まないように、自分で何とかマネージしていかなければならない。そのことに気づいて、怖くなってしまったのだ。とても怖いのだ。よく目を見開いて見れば、理不尽にも沈まされた船がいくつも見える。自分もいつかそうなる運命なのかも?と思えば、自分自身や周囲をしっかりと二つの目で、捉える勇気がない。何か恐ろしい事態に気づいてしまうのではないかと怖い。それで胸がざわついている。だから胸がじんじんと痛む。「何か恐ろしい事態」というのは、全ての船はいつかは沈む、という運命のことなのかもしれない。
 
 どうしたらいいかは、分からない。まだ船室から出ることはできそうにもない。しかし船室にも窓はある。窓から外を眺めてみようか。隣の船を、少し眺めてみようか。大きくても小さくても、中ぐらいでも、驚かない。ただ眺めるだけでいいのだ。いつかは操縦室に自分で立つことを念頭に。