うつ病・不安障害日記

毒親の両親に育てられ、成人後ひどいうつ病を発症した毒子日記です。

ありのままを受け入れるということ

 胸にでんと居座り続けている違和感というか不安感というか焦燥感、のことを考える。それが何を主張しているのか、なんだと私に訴え続けているのか、いろいろ考えてみる。
 考えてみると、ありのままの自分に気づいていながら、自分はそのままの自分は好きではない、と主張しているようだ。
 
 このまま眠剤をやめられずに、妊娠ができないとしたら、私自身の精神的な問題のために、何か幸せをとりこぼしているということになる。
 プレッシャーに対してひどく脆弱であるとしたら、私は、まともに責任を持った仕事というものができないということになる。
 対処能力や問題解決能力が著しく低いとしたら、私は今後起こりうる人生の荒波を乗り切れないということになる。
 これでは自立した大人として生きていけないということではないか。それでいいのか?いいわけない。
 そんなふうに、主張しているみたいだ。
 
 一方でそれに対し、強引に舵を切って、否認に走る自分がいる。イヤ、私はそんなに無能でも無力でもないし、精神的にも心理的資質にも問題はない。頑張れば何とかなるはずなんじゃないか?
 ・・・しかし現実はそうではなかった。頑張って、そうして、何とかならなかった。
 
 精神的に非常に危機的な状況にあった数ヶ月前のとき、ベッドに入ってから、眠れないのではないかという不安のために発作に近い症状がいつも起こっており、そういうときに精神集中して「南無阿弥陀仏」を唱えた。南無というのは「任せる」ということらしい。つまり簡単に言うと、南無阿弥陀仏というのは、阿弥陀様に全てお任せします、という意味らしい。仏壇の前で手を合わせて何度も唱えてきたこの念仏、これまでは何か願い事をかなえてほしい、という意で使用していたが、このときばかりは、亡くなった祖父母の笑顔を頭上に思い浮かべ、「どのようになっても全てお任せします」と心の中で思いながら、同時に「南無阿弥陀仏」と唱えた。「南無」で息を吸い、「阿弥陀仏」で息を吐いた。震える身体でそれを何度も繰り返した。本当に祖父母やご先祖様が自分のことをしっかりと見ていると、想像した。すると不思議と胸のつかえがとれた。
 
 自分が頑張ってもコントロールできないこと、それらをありのままに受け止める。それは「何が起こってもそのままに任せる」ということの意思表示なのかもしれない。今夜眠れなかったとしてもその事実をそのままに任せます、自分の人生が思うように進まなかったとしても、そのままに任せます、と。任せる、というのはつまり、世の中の大半のことが自分のコントロール下にないこと、世の中や人生はそもそも「自分の思うように」進めるようなものではないこと、そういうことを身の内から教えてくれる。