うつ病・不安障害日記

毒親の両親に育てられ、成人後ひどいうつ病を発症した毒子日記です。

村上春樹のインタビュー掲載雑誌発売

 『ノルウェイの森』の中で、対照的な二つのセリフがある。
 
 一つは、物語の冒頭部分で、直子が主人公に対して言う言葉である。
主人公が、”(いろいろ心配ならば)自分が守ってあげる。”と言うと、直子が・・・後に発症し結局治らず自殺してしまうのだが・・・”結婚して、あなたが会社に勤めて、その間は誰が私を守ってくれるの?”というようなことを言う。そして、”そんなふうに依存して生きていくのはフェアではない”というようなことを付け加える。
 
 もう一つは、物語の中盤あたりで、レイコさんという、これまた精神科入院歴のある女性が、自分の元夫と結婚したときに思ったことを、主人公に対して言った言葉である。”この人と一緒にいる限り私は大丈夫、って思ったわ。私たちの病気にとって必要なのはこの信頼感なの。”
 
 私は両方の思いを体験したことがある。夫と出会って今後もずっと一緒にいることができるだろうと感じたとき、レイコさんのように思った。このときなら、もし一日中一人で家にいなければならないような今の状況を思い浮かべたら、夫のいない間、家の中を好きなようにインテリアしたり、新しくいろいろな料理に挑戦してみたり、土日は一緒にどんなテレビを見ようか?そんなことを考えて過ごしただろう。むしろ彼の空気を感じながらの一人の時間を楽しんだだろう。そして、彼に何かあったときには、私だって彼を守ってあげることができる、そう思っただろう。私の周囲の人も言う。「彼がいるから全部大丈夫なのよ」「あんなに優しく頼りがいのある彼がいて、これ以上何が心配なの?」と。
 
 しかし、今は直子のように思っている。「あなたが朝の7時には家を出て、夜の12時に帰ってくる、その17時間の間、誰が私を守ってくれるの?そして、そんなことを考えながら一生を送ることは、あなたの重荷になるのではないの?そんなふうには絶対になりたくない」と。
 
 この二つの思いの違いは何なのか?直子は主人公を愛していなかったから、そんなふうに思ったのか?それとも発症していたから、そう思ったのか?つまり、病気が治れば、そう思わなくなるはずなのか?それとも、もともと病気が治らない運命の人であるということを暗示していたのか?それとも、結婚当初は誰でもレイコさんのように思うが、次第にそれが薄れていくものなのか?
 
 どちらでも何でもいい。結局答えなんて分からないし、物事が進むべき方向に進めば、結局何が理由だったかなんてどうでもよくなるものだ。物事を深刻に捉えすぎないほうがいい、と村上春樹もよく言っている。
 
 しかし、実際の問題として、安堵感や幸福感を味わうことができないまま、平日の日中を一人で過ごさなければならず、結婚当初のように思えていないことは非常につらい。彼と一緒にいて、懐に深く抱かれる安心感より、一生このままで幸福感を与えることができず重荷になったまま終わるのではないか、という思いが優勢になっていることがつらい。
 
 本当はこの気持ちを夫に相談してみたい。そして何か答えがほしい。とても納得のいく答えを。そうすれば安心感が戻るかもしれない。
 直子は主人公の答えに納得をしなかった。むしろ「分かってもらえていない」という気持ちを強くし、それ以上口を閉ざしてしまったんだった。
 
 村上春樹の小説であれば、このタイミングで、「やれやれ」という言葉が出てくるところだろう。
 
 そういえば、今日は村上春樹のロングインタビューが掲載される雑誌が発売されるらしい。買いに行かないと。