うつ病・不安障害日記

毒親の両親に育てられ、成人後ひどいうつ病を発症した毒子日記です。

暇な時、やることはあっても。。。

夫に本や映画を進められたり、自分で楽しみのために録画しておいたものや借りてきたDVDなど。
あるいは、家の中の整理など。家事。

やらないといけない、やった方がいいだろう、と思うのに、思えば思うほど具合が非常に悪くなって手が付けられない。

具合を悪くしている考え方としては、
(1)こんなことやったって、どうせ私が病気で人生を無駄に無為に過ごし、無能であることには変わりがないのだからやったって意味がない、

(2)楽しいことをやっているはずが、その間に症状が出ていて具合が悪かったりすると、せっかく楽しいことをやっているはずなのにそれを楽しめていない自分を絶望的に感じることがあり、そういうことが起こる可能性を排除したいためにやらないということがある。

(3)それで手が付けられない自分は、「気がかりなことをわきにおいて、うまく気分転換する」ということができない無能者だ、という思いを強めてしまう

結果的にやったほうがいいのかどうかということは、
本を読んでみておもしろい場合がある(ダビンチコードは面白くて病気の間に読了した)
映画や録画でもそれで気分が変わることもある
外出して気分が変わることの方が多い
楽しいこと以外のことでも、手をつけると達成感があったり、整理が先に進むのでよい

一方で

これらのことをやっている最中に具合が悪いということもあり、そうすると「せっかく楽しいことをやっているはずがその間に具合が悪いということは、何をしても症状はよくならないということであり、私は病気であり不幸であるということの証拠」とあとでトラウマ記憶として残ってしまう。この考え方は認知療法的に見ても歪んでいる。苦しさから逃れられるかもと期待をしてその通りにならないことへの絶望感なのかもしれない。

気がかりなことがあって手がつけられない、ということは誰にでもあることではないか
というふうに考えてもよい

だが具合が悪いときにじゃあどうするかということになった場合に人は「何らかの気をそらす方法をとることでその考えから離れる」という方法をとる。実際考えから離れて症状がおさまる場合もある。

ここで具合が悪いながらも、行動をとれればいいのだが、ここで邪魔をする考えが

「これをやったって私の病気がすぐに治るわけではない。落ち込んで考え込んでいた方が楽だ」
という頑固なまでの考え方なのだ

こういうことが強まっていってまずいと思った時には以前は自分の「役割」を思いだし、学生ならば学生のことをする、つまり勉強する、仕事をしているときは仕事に備える、というふうに決めていて、それをしていると自然とパワーがわいてきたのだが、今は「自分の役割が不明瞭で何をしたらいいのかが分からない状態」。(まあ言ってみれば病人ということだが。)

具合がどうしても悪いときには、ムリに手をつけないでもいいのではないか。寝てしまった方が楽なときにはそうしていてもいいのではないか。そうすると今度は寝てばかりの自分ということでまた自己嫌悪になる。

少しでも自分の思い通りにいかないと行動できなくなる癖、というのは直さなければいけないと思う。

別の考え方としては
☆病気の間の無駄な時間だからこそ、早く治すことに専念しよう
☆楽しいことをやっても具合が悪かったときには、「まあ仕方なかったね」と切り替える
☆気分転換にやったものを記録するか、思い出して、「自分でも気分転換ができる」という自信としていく
☆落ち込んでいた方が楽なわけがない

気分転換の到達点ってなんだろう?(なんだと自分は思っているのだろう)

①パワーがみなぎること(将来への希望が出てくるとか)
②単純に、今陥っている考えから離れて、気分や身体症状が緩和すること
③最高の快楽を味わうこと
④するべき行動に移ることができること
⑤思考が柔軟になり、今抱えている問題に対しても、別の見方ができるようになること
⑥即座に完全に身体症状が消失すること
⑥抱えている問題が解決すること(病気が治ること)

私が望んでいる到達点は、②以外のすべてであり難易度が高いようだ。だからうまくいかないんだろう。②を目標として、それをひたすら繰り返すしかない。

今は病人として無駄な時間を過ごしているのだから、生産的な行動がとれなくても仕方がない。だが目的を「今陥っている考えから少しでも離れること」として、気分転換に取り組んでみる。

記録表には

日時
そのとき陥っていた考えと身体症状と気分の程度
行動を開始する時にどのくらいの気力を必要としたか
気分転換のためにとる(とった)行動
目的に到達したか
その他身体症状の程度等