うつ病・不安障害日記

毒親の両親に育てられ、成人後ひどいうつ病を発症した毒子日記です。

両親自宅に来る

 先日、両親が自宅に来た。
 理由は、実家に置かせてもらっていた仕事の書類を届けてもらうためだった。仕事の応募書類を作成する際に、どうしても確認したいものがあったからである。
 発症直後、仕事が原因で発症したため、仕事に関する書類等を身近に置いておくことができなくなり、(近くにあって目に触れたりするだけで、身体が震えたり、具合悪くなるため)、発症後にそれらの書類を、ダンボロールに詰めて全部実家に持って行ってもらっていた。
 
 親に何かをお願いすることが昔からできなかった。特にこういうことは負担をかけるから。わがままそうに見えて、本当に頼みたいことは頼めないままできた。特に父親には。それを電話で頼んでみた。案の定、父からこれを届けるのは大変だと言われ、一回実家に来いと言われ恐怖を感じたが、何とかそこで交渉するよう頑張ってみた。
 父に普通に自分の希望を言うことが、これまで全然できていなかったのだ。だから外の世界でもそれをすることができなかったわけだ。

 交渉はうまくいき、結局、実家にはいかず、送ってもらうにはあまりにも量が多すぎるので、車で送り届けてもらうことになった。

 触れることもできなくて追いやっていたものが、ここへ戻ってきたということ。

 これは、一つ「治ってきた」という大きな指標であるということ。それを見ることができるようになったのだから。

 そして親がきて、お茶をしていって、話をしていって、ああ、ここ数年のわだかまりが完全にとれたなあ、と思った。もちろん、我々の間には決して取り戻せないものはある。特に親の側はそうだろう。
 でも一生親と、どこかもやもやを残したまま終わる人生と比べたらどれだけいいだろうか。親と何かわだかまりを抱えている、という状態は決して自分のうつ病にとってもよいものではない。

 私が実家にここ数年置かせもらっていたものは確かに、見ることも触れることもできなかったものであるが、同時に私が人生をかけて大事に育ててきた仕事でもあった。自分の実績でもあった。自分の証でもあった。
 それを親が発症時に持って行ってくれて、そうして私が治った証拠として、持って帰ってきてくれた。これが親の仕事だったんだと思うと、興味深い。病気の間、たくさんの人から助けてもらったけれど、一番ひどい時を見ていて、最後に、一番重要な役割を果たしたのも親、ということになる。

 そしてわだかまりがとれたとは言え、病前とは違う我々の関係がある。私は正直に、また仕事で手が震えたこととか、自分の弱さをさらけ出した。発症前は強がっていたし、なにしろ自分のダメなところを見せると母が怯えて大騒ぎしたり、ほとんど聞こえないふりをしたりするような人だったから(子どものうまくいっていない様子に直面することができない人だから)、そういう人前で震えてしまったりする出来事を黙って聴いているということは、結局両親も相当変わったということなのだ。言える私も変わったが、黙って聞いている相手も変わった。そして、そうか、こんなにありのままでいいのか、ありのままでいていいんだな、と思えて楽になった。両親の前で虚勢を張らなくていいのだ。
 私が病気になって得たものはこれだったんだ結局。

 父は「まあ(仕事は)ゆっくり行け」と言った。「4年か?」と何気なくいった。そう私が何度も頭の中で反芻してきた発症後からの年数。父が覚えていた。それを何気なく言った。父も頭の中で反芻してきたからに違いない。

 だが一方で、母が老後の不安を口にし、「こどもたちが自分の面倒を見てくれないのではないかと不安」と言ったことが、自分の心にずしっときていた。
 私がまだ完全によくなったわけでもないうちから、自分の悩みを子どもにきいてもららいたいというのがうちの母である。これは、もとの関係に戻りつつあるからこその母の自然な態度の表れでもあるのだが。
 
 だがこの面倒、というのがひっかかった。母は、物理的な面倒のことではなく、恐らく心理的なもののことを指しており、私が、母子密着状態から、心が離れてしまったため、共依存する関係の相手がいなくなってしまったということを指しているのだと思った。姉も私も近くにいるし、親は経済的に何の問題もないので、老後の面倒の心配を身体がぴんぴんしている状態からしているなんていうのは普通に考えればおかしいことなのである。

 母はひとつの心で立ったことがない。だから実母や、姉、私と共依存状態にしてきた。いつも自分の延長線上に子供を見、だからこそ、自分の自尊心を満たしてくれる道具として子どもを扱った。だからそれがかなわないとなると不満を言ったり文句を言ったり落ち込んだりした。私はそれに伴って一緒に落ち込んでいた。
 しかし私は病気になることで大部分この状態から脱却してしまった。脱却したいから病気になったともいえる。母が普段、人間関係でうまくやれず非常に落ち込んだりするという話をきいても、客観的にきくことができたし、影響をされることがなかった。
 
 だがこの、面倒を見てもらえないのではないかと不安、というのは、イコール、「自分の心の面倒を見てもらえないのではないかと不安」という意味であり、つまり、私や姉が~というより私や姉の心が、母の心から離れた、自立してしまったことで、自立していない母の心が一つになってしまうということを母が直感していることを意味した。そして私は、そのことが、気にかかった。このときの気にかかり方は、客観的に心配するのではなく、共依存状態の時の心性に似ていた。罪悪感だ。共依存状態の心理として、気にかかるのだ。だから怖かった。自分がまだ、完全には離れられていないのだな、母を一人にできないのだなと。
 
 それで数日後ぐらいに少し具合が悪くなった。

 カウンセラーに相談してみよう。

 でもまあ、親との関係を気まずい状態のまま終わりにしなくて本当に人生良かったと思う。