うつ病・不安障害日記

毒親の両親に育てられ、成人後ひどいうつ病を発症した毒子日記です。

病気の時にこそ、人は真実を見ている

 うつ病の急性期とか、非常に具合の悪いときには、心のコーティングがとれている状態で、いわば、生の無意識に手を触れているような感じで、意外と健康なときより、自己分析がしやすかったりする面もあるように思う。悪夢が前面に押し出して、はっきりと何かを示唆したり、身体症状が何を訴えているかということが直感的に言えたりする。親との関係も今まで見えないあるいは見ないようにしてきたものが、ぶわーと見えてきて、それが的を射ている。(私は完全にそうだった。病気にならなければ見えなかった) 
 村上春樹の「多崎つくる」の話でも、死ぬことばかり考えているという異常な状態(恐らくうつ状態であろうと思うが)でありながら、頭は非常に「クリア」であった、ということが強調されている。 
 しかし良くなってくると、身体の具合が悪いのは体力がないせいだから体力をつけたらいい、などと考え出して、症状の意味が見えなくなったり薄まったりする。健康さとは、ある程度いろんなものを覆い隠して、表面綺麗に見せる働きがあるのだなあと思う。だから、人間都合の悪いことはある程度否認して生きるというのは大事なこと、そうでなければ、私達が生まれたときから抱えている、あの、ヒトの死亡率100%という事実を置いて―世の中にこれ以外で100%と言えるものなど何一つないにもかかわらず、我々はそれ以外の、死に比べたらいわばどうでもいいことであれこれと思い悩んだり心配していたりするわけで―生きることを楽しむなんてできないはずだから。だが、病気のときには、こういう『現実的』なことを、結構きちんと目にしているのではあるまいか。だから、死に怯えてガクガクして、実際に身体まで震えてきたりする。だがふと立ち止まって考えれば、起こるか起こらないかも分からないことを思い悩んでいるより、確実に100%起こる死という絶望について思い悩んでいる人の方がよほど「現実」を見ていることになりはしまいか???なのに私たちは、毎日死におびえている人をみて、あの人は非現実的だ、というのである。それより明日の飯の心配をしろという。どちらが非現実的なのか。 
 病気になれるということは、本当に怖い現実を見る勇気があるということである。普通ならシャッターをしめてしまう極限で、シャッターを閉めないのであるから。画家や作家や音楽家、俳優などの芸術家は、まさにそれを体現している人たちである。世の中の「光」や「明」や「強さ」しか表現できない人は芸術家にはなれない。彼らがときどき狂人と称されたり、実際に狂気じみていたりするのはそのせいであろうと思う。