心の中の真実
私は父のことが嫌いなんだと思う。
夫以外の人に防衛的になって壁を強固に作ってしまうのは、「知ってしまう」恐怖なんだと思う。
自分のことが知られたくない恐怖以上に、知ってしまう恐怖が強いんだと思う。
相手のことを知ってもしその人のことを嫌いだと思ったら?嫌いだと思う部分があったら?
親に保護してもらう必要のある子どもは、たとえ心の中で親のことが嫌いでも、「嫌いだと思ってはいけない」という心理が当然働く。
私は父のことが嫌いでも、そう思ってはいけないと考えたんだろう。
だから父のことを「知らない」ように努めたんだろう。
そのためには、人との間に壁を作ることが必要であったのだ。
普通は人のことを嫌いだと思うことに恐怖なんか感じない。
嫌いだと思ってもいいという、余裕、嫌いだと思える空間を、私は恐らく与えられなかったのだろう。
人のことを嫌いだと思うことに恐怖を感じないようになれば、人と近づくことができるかもしれない。
父の中に得体のしれない何かがあって、きっとそれが何か分かっていて、それが嫌いなんだ。
それは自分をとても傷つけるものなのだ。
夫にだけは壁を作らずに済んでいるのは、夫のことは自分が好きだという確信があるからだ。
好きな人のことは知っても問題ない。中身を知っていて好きになっているのだから。
「相手を知ってしまう恐怖」
相手を知ってもそれは父の持っているものとは同じ中身ではないと考えればいいのだろうか?
父のことが嫌いだなんて心の中の真実は、できれば見ないで目を背けておきたい。
当然罪悪感はある。
罪悪感だけでなく、不幸感もある。自分の実の父親を好きではないなんて。しかもそれに確固とした理由があるだなんて。
父には、自己の中に基準がなく、一見誠実だが、卑怯な面がある。他人の基準でしてはいけないことは決してしないが人が見ていないところでは何をしてもいいという、たとえば動物をいじめてもいいとかいう類の、そういう心理がある。
私は子どもの頃からそういう扱いをうけてきたし、そういう父の心理を直感していた。それでそれを何とか見ないように努めてきた。
それは私の中にもそういう面があるからなのだろう。「人が見ていなければ何をしてもいい」という。究極にはそれを見たくないのかもしれない。
こんなことわかったからって何になるんだろう
おまけにそのせいもあって今まで人間関係がうまく構築できなかったしこれからもきっと難儀していくんだろうなんてことが分かったって。
どうしようもない。
でもそれが真実なんだ。
私は父に愛されていないということ。父は人が見ていなければ子どもに何をしてもいいという考えの持ち主であったこと(ただし人目が基本的にはあるから虐待されたとかではない)。そんな父を私は嫌いであること(憎んでさえいない、愛していないから)
それが真実なんだ。
これからは「父のことが嫌いだったのには理由があるし、嫌いでもいいんだ」
と自分を慰めて生きていこう。
それが許されるようになったのも、結婚したからだ。だからそう考える余裕ができた。
結婚ってある種の人々にとっては、こうやってどうしても必要なものだ。
私は病気のひどい時、夫に向かって「パパは自分のことが嫌いだったんだよ」と言いながら号泣したことがある。
そういうことが言える相手さえいなかった。
元の家族では。家族の誰かが誰かを本気で嫌いだなんて、やっぱり問題でしょ。ここが一部嫌いとかじゃなくて、本気で嫌いなんだから。しかも親。
嫌いでいいんだ。
だが母は私にまっすぐな愛情を注いでくれたし、これまでブログで書いてきたように弱さによって娘との一体化願望を求めていたから私は傷ついたこともあったけれど、
母からの愛情を疑ったことは一度もない
弱さゆえにたくさんの間違いを犯したと思うが、愛情を疑ったことはない。
それが救いだ。
完璧な親などいない。
それでもこの世を子どもがひとりでわたっていくのは困難である。だから、父親の内面を直感的に見抜いていてそれが嫌いだったとしても、たとえ父が私を愛情の故ではなく世間体のためにきちんと食べるものを食べさせてくれたのだとしても、それを受け入れ、幸運であったと思わねばなるまい。
もっと堂々としていればいいのだ。
嫌いだったということ。