うつ病・不安障害日記

毒親の両親に育てられ、成人後ひどいうつ病を発症した毒子日記です。

生と死について

 村上春樹はよく死についてとりあげる。ノルウェイの森の中で、わざわざ太字で「死は生の対極ではなく、その一部である」と書いていて、それの意味がよく分からなかったのだが、最近、身近な人の死を体験して、それでその意味を実感した。
 
 これまでは、「生きた後死ぬ」、と思っていた。だが、生→死なのではなく、あるいは、死を前提にして生きているというのでもなく、わたしたちは、日々、死そのものを生きている、という方が正しいのではないか。
 
 だからこそ、計画や意図や希望や夢や予測や目的や、当然の成り行きや、物事のバランスといったものとは関係なく、突然に死は訪れるのではないか?どんなに頑張ってみても、そこに意味のつけようのない死というのはあるものだ。
 
 私たちは死が自分のコントロール下にないことが怖いので、誰かが死んだときに、それの原因を見つけたがる。老衰だとか、病気だとか、生き様が反映されているとか、神様が呼び寄せたとか。。。原因が分かれば自分でコントロールできるからだ。
 でも本当は死に至ったことに理由なんてないのだ。毎日が、死を生きているのであり、その途上でそれが訪れたというに過ぎない。
 
 金太郎飴みたいに、生のどこの部分を切り取っても見えてくるのは死なのではないか?
 
 だからこそ逆に言えば、死を恐れずに生きられる。将来の計画なんか立てずに、日々をかみしめながら生きる必要がある。