うつ病・不安障害日記

毒親の両親に育てられ、成人後ひどいうつ病を発症した毒子日記です。

永遠の一体感

私には一体感願望が強くある。

ノルウェイの森」に魅かれるのもそれが理由だ。ノルウェイの森は、自殺した恋人の後を追って自殺する時の心理状況が描かれている。私がこの小説に強くひかれたのは、「誰かの死に引っ張られる死」というものに強い憧れがあるからだ。

なぜ憧れるかというと、自殺という最高峰のこの世の闇を、二人共が体験し、それによってその一番この世で恐れる闇を共有し、死の世界へ行くことによって、完全に永遠の心の一体感が得られるからである。

神風特攻隊の動画もよく見てしまう。
集団で固まって空へとびたち、どこへ行ったのか?先に逝った仲間、あるいは、母なる大地にかえっていったのではないか。彼らのパワーの源は「靖国で会おう」であり、あるいは最期に「お母さん」と叫んで大空へと散って行ったのだ。
これはムスリムのジハード、つまりイスラム教の自殺とは根本的に違う。映画などを見ていると、彼らはたった一人で孤独に車の中で、バンっと死んでいく。何か叫ぶとしてもそれは「アラーは偉大なり」と神に向けて叫ぶのであって、そこで母親や仲間の眠る場所を叫ぶことはたぶんないであろう。
何が違うかというと、ムスリムのジハードが個として神との一対一の関係の中で自殺を図るのに対し、日本人は自他の境界があいまいで、いわば仲間や母親と心が団子のようにくっついて、先に逝った人に引き寄せられるようにして集団で空へ引き寄せられていったように見えるということだ。

私はこのような死にどうしてもひきつけられてしまう。それは恐らく、自分自身がそのような形での一体感をどこかで求めているからであろう。それは自分が一人で、自分ひとりの心で闇を体験したくないということの表れなのであろうと思う。そして病気になる前は母親との心理的一体感という形でそれが表れていた。

これが自分の今考えられる未熟な精神であり、最大の心の闇であると思う。つまり、「完全なる永遠の心の一体感を得たい」という願望である。そしてそれは恐らく、死の世界でしか得られない。

これは表面的には「心の闇を体験している誰かに、1人でその思いをさせてはいけない、自分も同じ思いをしなければならない」という心の声として現れる。一人で怖い思いをさせることへの罪悪感である。それは結局自分が一人でそのような体験をしたくないからに他ならない。病気のひどい時に、ふきっさらしの大地に一人立っているような気持ちになったし、大海に一人で船をこいでいかなければならないような感覚に襲われたが、まさにその状況を恐れているのである。つまり一人の心で恐怖を体験することを恐れているのである。

このような深層心理を自分できちんと認識しておくことが重要だ。自分がそういう闇を抱えているということ。それを認識してそれと距離を置かなければならない。

なんだか書いていて、阿部定事件を思い出した。恋人の性器をきりとり、恋人を殺すことによって永遠に恋人を自分のものにしようとした事件だ。この心理は全然見当もつかなかったが、今は何となくわからないでもない。